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我、石田三成の墓に参墓せり


2017/10/15  ”戦史ノンフィクション”  
ー秋本番となり、この度新しいテーマ「戦史ノンフィクション」を開始します!以下、京都妙心寺の寿聖院にある石田三成の墓に参墓したレポートを以下、お届けします。  
 本来、命日の10月1日に行きたかったが、所用のため10月5日午後、臨済宗妙心寺の塔頭寿聖院(1)にある石田三成(2)の墓に参墓する。愛車のマウンテンバイクで午後2時前に到着。門のインターフォンを押すと、西田英哲住職がお出迎えになる。早速、境内にある石田三成一族の墓に参る。持参した線香を上げ、霊前に合掌する。  
 その後、寿聖院で西田住職からお話を伺う。昨年12月に当院に就任された西田住職は、二階堂と同じ同志社大学のご出身。意気投合し、話が弾む。実は私の本名は石田(笑)恐れ多くも三成直系の子孫ではないが、この10数年来、関ヶ原の戦いに敗れた戦国武将、石田三成のことがずっと気になっていた。  
 11年前の2006年秋頃だったか、何かの縁に引き寄せられるかのように、妙心寺の寿聖院に石田三成の墓があることを知り、直ちに駆け付けた。突然の訪問にもかかわらず、当時90歳過ぎの老僧であった谷口住職に境内の墓に案内して頂き、直接老師から三成と寿聖院の由来についてお話を伺った。  
 さらに2年前の夏、私は妙心寺で警備員のアルバイトに従事していた。非番の夏のある日、寿聖院を再訪。当時の松山住職に案内され、お話を伺った。そして今回、三度寿聖院の石田三成の墓に参る。小一時間程、西田住職から三成に関する貴重なお話を伺う。その後、禅僧らしい深々とした西田住職のお辞儀に見送られ、晴朗とした気分で寿聖院を辞す。  

       *       *       *   

 関ヶ原の戦いで敗れた武将、石田三成について「戦下手だった」「人望がなかった」などの悪評が、後世付きまとった。私自身、学生時代にそのような三成評を教わった記憶がある。しかし関ヶ原の戦いから417年後の21世紀の今、西軍の将、石田三成から見た関ヶ原の戦いと歴史の再検証があっても良いと、私は考える。  
 関ヶ原から敗走後、三成は滋賀県木之本町の山中の洞窟に身を潜める。しかし徳川側の追っ手に摑まり、京へ護送される。戦に敗れ、なぜ自害しないのかと問われた三成は、以下の如く答えた。  
 「私は再起するつもりでいた」-『名将言行録』より  
 3日後の9月18日、三成の居城・佐和山城も小早川秀秋らの軍勢に攻められ、落城。ここに三成の父・正継と兄・正澄は自刃。嫡男の重家は後に出家し、石田一族は滅ぶ。その後10月1日、家康の命により、三成は京の六条河原で斬首される。享年41。 
 ”筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく我が身なりけり”  
 石田三成の辞世の句。合掌   

<脚注>  
 ☆1)寿聖院:開基は石田三成。石田氏一族の菩提寺として慶長4年(1599年)に創建。関ヶ原の敗戦後、三成の長男・重家は出  家し、宗享と名を変え、寿聖院の住職となり、104歳まで生きた。尚、寿聖院は非公開。HPあり:http://www.jushoin.jp
 ☆2)石田三成:安土桃山時代の戦国武将。永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村に生まれる。豊臣   秀吉の関白就任以降、三成は有能な官僚として頭角をあらわす。秀吉の死後、天下取りを狙う徳川家康と対立。西軍を組織して
  関ヶ原の戦いで家康の東軍と戦うが、敗北。京都六条河原で処刑される。享年41。  

ー写真カットは、妙心寺寿聖院にある石田三成の墓。中央の石塔が、三成の墓。合掌。10月5日撮影。  

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二階堂 新

Author:二階堂 新
 1955年生まれ、京都在住。フリーライター、フリーカメラマン、作家、企画主催者。皆さん、ヨ・ロ・シ・ク!

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